なぜ学校はこんなにも幼くなったのか!? 福田和也著『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』を読んで考えた「公教育現場の現在」【西岡正樹】

◾️「この教師はほんとうにやる気のある教師なのか」という生徒の眼
45年前、私は教師として子どもたちの前に立っていたが、私は常に子どもたちに「この教師はほんとうにやる気のある教師なのか」ということを試されていた。ちょっとでも手を抜くと、子どもたちはするすると私の手の中をすり抜けて私の届かない所にいく恐怖感があった。4月、5月、6月と月日の経過と共に、子どもたちに理解されていったが、私と子どもたちは常に緊張感の漂う関係にあった(子どもたちに感じられないようにしていたが、子どもは感じ取っていただろう)。
また、6年生の姿や挨拶を返せない子どもたちの姿を思い浮かべる度に、「当たり前のこと」ができない、その幼さに頭を抱える(これを読むと「当たり前って何ですか」と訊いてくる人が必ずいるが、それこそ日本人が「幼稚に」なった一因でもあるのだが)。
しかし、そもそも、子どもは自ら幼くなっているのではなく、我々大人から影響を受けて幼くなっているということを忘れてはいけないのではないだろうか。
元慶應大学の教授である福田和也氏(故人)は「幼稚」について、著書『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』の中で、次のように簡潔に語っているが、私も至極納得した。
・幼稚とは、肝心なことに目をつぶっているということ
・幼稚とは、自己を顧みない、という人として基本的な心の動きが欠けているということ

どのような環境下で子どもは育ってきたのか、育っているのかで、子どもの現状は大きく異なる。「親ガチャ」ではないが、教師という存在、親という存在は子どもにとって最も影響力のある環境の一部だと私も思っている。子どもの話し方や歩き方を見てほしい。恐ろしく教師や両親に似てはいないだろうか(特に愛着関係や信頼関係にあればあるほど)。
話し方や歩き方などは意識して子どもに伝えられるものではない。それなのに親や教師の話し方や歩き方が似てくるということは、それだけ「子どもは教師や親をしっかりと見て、同じような動きをしている」ということではないだろうか。特に子どもと愛着関係や信頼関係にある教師や親の言動は、表出していても表出していなくても、子どもは教師や親の思いを感じ取り、その思いに応えようとするものなのだ。
福田氏の言葉を借りるならば、最も影響力のある大人がもし肝心なこと(=やらなければならないこと)から逃げている姿を子どもに見せていれば、それは子どもの内面にも刷り込まれていき、自分にとっていやなことであれば、子どもたちは目をつぶるに違いない。
